浄土宗の教え・葬儀・焼香のマナー・仏壇の選び方
浄土宗とは
日本仏教の中で、浄土宗は多くの人にとって馴染みのある宗派の一つではないでしょうか。また、浄土宗と浄土真宗の違いについて素朴な疑問を持つ人もいるかと思いますが、簡単にいえば、浄土宗は法然が開いた仏教の宗派であり、浄土真宗は法然の弟子であった親鸞(しんらん)が開いたものです。 ここでは、法然が開いた浄土宗とその教えや、葬儀における焼香のマナーや仏壇の選び方などについて紹介します。
浄土宗の開祖「法然」の生い立ち
浄土宗の開祖である法然は、どの様な生い立ちだったのでしょうか。法然は、1133年という平安時代末期に美作(現在の岡山県美作市)の地で地方豪族の子として生まれ、勢至丸(せいしまる)と名付けられました。 勢至丸の父は、地元で押領使(おうりょうし)という警備司令官を努めていました。武力を用いて犯罪を取り締る仕事に就いていたため、他者からの恨みを買うことも多かったことが推測されますが、現代の横領という言葉はここからきていると言われています。 そして勢至丸が9歳のとき、父、時国公は、敵対していた勢力から夜襲を受けます。仕事柄か、時国公はこの事態を予測しており、息子にまで被害が及ばないように、勢至丸を仏門に入れて隔離すべく、親族を頼りに仏門へと送ります。 勢至丸はこのとき、9歳にして両親を殺され、父の仇を討とうと考えますが、父時国公は勢至丸に対して、「敵討ちは無意味、更なる敵討ちを呼び、何代かけても尽きることはない」「出家して仏道を求め、本当の幸せをつかめ」と言葉を残しました。
九歳にして仏門へ
こうして、勢至丸は失意の中、父の仇討ちを捨て、仏の道を歩むことになりますが、当時の武家社会では「仇討ちは美徳であり、むしろ義務」という風潮がありました。そんな中で「仇討ちを捨てて仏門に入る」という決断は並大抵のものではなかったはずです。 勢至丸は「父は恨まれていたので地獄に落ちる」と考えていたため、何とか「親を極楽浄土へ送ってあげたい」という気持ちからも、仏説に没頭しますが、とてつもない早さで知識を習得していき、当時勢至丸に学問を教えていた住職は「この才能をここで埋もれさせるには勿体ない」と考え、本格的に学ばせるべく、勢至丸が13歳のときに京都の比叡山へ送ります。
比叡山入り
比叡山の延暦寺(天台宗)にて、勢至丸は源光(げんこう)上人の弟子となり、一心不乱に仏教を学びますが、そのあまりの吸収力に源光上人は驚き、同じく比叡山の皇円(こうえん)阿闍梨(あじゃり)という僧侶へと勢至丸を託しました。 勢至丸の次の師匠となった皇円阿闍梨は、比叡山の将来を担う存在として出世させようとしましたが、当然、勢至丸が仏教に求めるものは出世などではないため、朝廷を威嚇する僧兵たちや出世争いに勤しむ僧で溢れ返っていた当時の比叡山に疑問を抱いていた勢至丸は「山を下りたい」と申し出ます。 しかし、皇円も優秀な勢至丸という弟子を手放したくないため、考えました。天台三大部(てんだいさんだいぶ)という六十巻の書を読み終えてから改めて決断するようにと勧めました。実はこの天台三大部という書は、普通の僧であれば読んで理解するには一生涯かかると言われる代物でしたが、勢至丸はわずか3年で読破したのでした。
叡空より法然の名を授かる
そして18歳になった頃、勢至丸は、比叡山の中でも俗世から隔離された隠遁(いんとん)の地とされていた黒谷へと移り、比叡山で第一の学僧と呼ばれていた叡空(えいくう)へ弟子入りを志願します。 約5年の間、勢至丸は叡空から、徹底的に天台教学や浄土教学を教わりましたが、切実で尊い勢至丸の志に感心した叡空は「法然房源空」と名付けました。ちなみにこれは、最初の師匠である源光の「源」と、次に師匠となった自分(叡空)から「空」を一字ずつ取ったものです。
法然の教え
法然の教えの中心は、何といっても「専修念仏」に尽きます。ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで万人に心の救済をもたらし、「南無阿弥陀仏」と唱えることで「誰でも極楽浄土へ行ける」という教えは、とてもシンプルでありながら当時の難解な日本の仏教界では衝撃的な教えだったのです。 浄土宗が広まった平安末期という時代は、貴族の支配が崩れつつあり、社会不安や末法思想(衰退に向かう終末思想の様な思想)とあきらめ感が人々の間に広がっていました。 終末思想が広まると宗教が影響力を持つのはいつの時代でも同じで、そんな時代背景を持つ当時においては、「せめてあの世で楽になりたい」と願う人々の考えとマッチし、法然の説く「浄土思想」は支持されたのでしょう。また、農民から爆発的人気を得たのも、「念仏を唱えれば極楽往生できる」というシンプルな教えが受けたからと言えます。 法然は亡くなる直前、弟子からの要望に応えるべく、法然による「浄土宗の教えの解説書」とも言うべき、「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」を書き残しました。 その中にある重要な教えの一つとして、「一点の疑いもなく阿弥陀様のいる極楽浄土へ行けると信じながら、ひたすら南無阿弥陀仏と唱えなさい」というものがありますが、ここに法然の教えがシンプルに集約されていると言えるでしょう。
浄土宗の葬儀で読まれるお経の特徴
浄土宗で読まれるお経は、主に「浄土三部経」となり、法然が選んだ「阿弥陀経」「無量寿経」「観無量寿経」の3つです。まず「阿弥陀経」には、阿弥陀仏の国「極楽浄土」がいかに素晴らしい所かという内容が説かれています。 「無量寿経」は、釈迦が阿難に説く形で、阿弥陀仏の国はいかに素晴らしいかを説明し、そこに生まれた人が「自由自在にそれぞれのやり方で悟りを開いている」様子や、釈迦の弟子の中でもなかなか悟れずにいた阿難が、阿弥陀仏の国を見たいと強く願いながら「南無阿弥陀仏」と唱えることで「実際に阿弥陀仏の国が見えた」という様子などが書かれています。そして、「観無量寿経」でもまた、インドのマガタ国を舞台にした物語の形式で、同様に「阿弥陀仏の国」や「念仏を唱えることで行ける」ということが書かれています。
浄土宗の焼香マナー
浄土宗の葬儀では、焼香の回数に決まりはありません。遺族に一礼、参列者に一礼、そして焼香台の前に立ち、合掌して一礼します。焼香は、人差し指と親指で香をつまみ、額の上あたりまで上げ、自分の方へ向けてから香炉へ移します。 そして、遺影の方を向いたまま少し後方へ下がり、遺族、参列者にそれぞれ一礼し、席へ戻ります。 また、一般的に「浄土宗の焼香は3回」と認識されているケースも多いようですが、浄土宗では、特に焼香の回数は定められておらず、しいて言うなら1回~3回の範囲といえるでしょう。ただし、葬儀によっては、参列者の人数などの関係から、事前に「1回焼香で」とアナウンスされることもあります。
仏壇の選び方
浄土宗では、阿弥陀如来がいるとされる西方浄土(極楽浄土)の方向へ祈るために、仏壇は「東向き」に置き、仏壇に本尊を祀る際には、中央に「阿弥陀仏」左脇侍(向かって右側)に「観音菩薩」、右脇侍に「勢至菩薩」を祀るのが基本で、いわゆる阿弥陀三尊(あみださんぞん)と呼ばれる形式となります。 また、仏壇の選び方についても特に決まりはありませんが、「本仏壇」、タンスなどの上に設置する「上置仏壇」や「卓上仏壇」などから、それぞれの住宅事情に沿った仏壇を選ぶとよいでしょう。
まとめ
浄土宗について紹介しました。念仏といえば「南無阿弥陀仏」というよ、今では誰もが知る南無阿弥陀仏を世に広めた法然がどんな人物だったか、その姿が少し垣間見えたのではないでしょうか。浄土宗やその教えに触れたことで、葬儀参列の際にも、きっと新しい発見があるかと思います。
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